二次元裏@ふたば

画像ファイル名:1729609922869.jpg-(14383 B)
14383 B無念Nameとしあき24/10/23(水)00:12:02No.1265804876そうだねx1 04:30頃消えます
タミヤカラースレ
1無念Nameとしあき24/10/23(水)00:13:55No.1265805299+
パクトラタミヤ!
2無念Nameとしあき24/10/23(水)00:15:16No.1265805597+
 まず、その口径は四八九ミリ、つまり一九・三インチ砲である。
 四七・三口径であるから砲身長は四八九ミリ×四七・三、すなわち二二・一五メートル、戦艦「大和」の主砲より二メートルも長かった。
 この巨砲は破壊威力を大きくするため、長砲身として設計された。
 いままでの戦艦用主砲である全鋼線砲型の三六センチ砲や四〇センチ砲と異なり、砲身の前半分はたがをはめた型式の筐装砲として製造し、砲身の後半分は高い腔圧に耐えるように、鋼線方式を採用した。
 鋼線砲というのは、砲身の内筒の上に張力のある鋼線を、いくえにもグルグル巻いて砲身を製造する方法である。
3無念Nameとしあき24/10/23(水)00:15:37No.1265805688+
 鋼線砲には、腔圧に強いとか、軽量の砲身が造れるなどという優れた特性がある反面、砲身は折り曲げ力に弱かった。
 その上長砲身砲は、砲身の振れによる散布界の拡大という欠点があったため、折衷案の半鋼線砲に決まったのだ。
 なお、散布界とは、標的に対する弾着のちらばり程度のことと理解していてほしい。くわしくは後述する。
 この砲の砲身製造工程は、最も内側の一A内筒(二四トン)を基準とし、二Aから二Dまでを焼嵌(やきば)めする。
 次に砲身の後半部にのみ鋼線を巻き、続いて四A(一九・七トン)、四B(一一トン)、五Aと焼嵌めていった。
 なおこの製造方法は、重巡用の五〇口径二〇センチ砲にも採用されたが、のちの「大和」用主砲は全鋼線砲として造られた。
 この砲の組立工事中、大正八年六月二十七日に二B内筒にクラック(ひび割れ)が発見されたので、三ヵ所を鋼線で補強し、大正九年に砲身が完成した。
 ところが、大正九年十二月十八日、亀ヶ首一の試射場で領収発射試験中、九発目に砲腔内で弾丸が爆発して砲尾が破壊され、尾栓が吹き飛んだ。
 事故の原因は三A、四Aの強度不足であり、検査員など四名が負傷した。
4無念Nameとしあき24/10/23(水)00:15:56No.1265805768+
その後、大正十一年には砲鞍(ほうあん)、上鞍(じょうあん)、駐退環(ちゅうたいかん)、装填腕(そうてんわん)、その他の部分が完成、大正十三年には装填機も完成したが、すでに“海軍休日”と呼ばれた世界的な戦艦建造中止時代に入っていたため、砲身は修理されずに放置されていた。
 この砲は、大正十三年一月から十四年四月までの間に起工の予定であった、超「紀伊」型巡洋戦艦四隻に搭載予定の四六センチ砲のための試作であった。
 その後、昭和十年に戦艦「大和」に四六センチ砲の採用が決まったので、この損傷砲身を修理して昭和十一年十二月に試射し、対爆風実験、甲鈑試験などに使用した。
 東京の「船の科学館」の前庭に「陸奥」の四〇センチ砲の砲身が展示されている。
 傍によると、全長一八メートルの、この砲身の巨大さがわかる。
 その砲口から七歩、約五メートル離れると、四五口径五年式三六センチ砲の砲身長とほぼ等しくなる。
 六十数年前に、こんな巨砲が日本にはあったのだ。
 おそらく世界中で最大、最長の巨砲であったと思われる。
5無念Nameとしあき24/10/23(水)00:16:13No.1265805831+
 スマートで剽悍(ひょうかん)、狼のようだ、という前評判の「妙高」型重巡洋艦が、いよいよ完成したが、本当は日本海軍は、その表面づらの花々しさとは裏腹に、ひどく困ってしまっていたのだ。

 この時代の艦砲射撃は、公算射法を採用していた。
 目標艦に対し、交互射撃で三〜六発、一斉射撃では、その倍の六〜一二発の弾丸が一回に発射される。
 空中を飛翔して、これだけの数の弾丸が、いっせいに海面に落下する。
 その弾着は射線の方向、つまり平行にちかい態勢では、横に細長い目標艦に対して直角に、細長い楕円形の範囲に散布される。
 公算射撃では、まず半数の砲を発射する。
 次に少し射撃距離を変更して、残りの半数の砲を発射する。
 こうすると、二回目の弾着が観測できるまでに、第一回に射撃した大砲には、第二弾発射の準備ができている。
 大砲は精密な機械だから、砲身の仰角と方向を、こまかに調整することで、数回の試射によって目標艦と自艦の砲の散布界を交叉させることができる。
6無念Nameとしあき24/10/23(水)00:16:35No.1265805904+
 このように、命中率を左右する要素は、一つは測距に始まり発射に終わる、射撃管理システムそのものであるが、もう一つは散布界の大小にあった。
 散布界が小さければ、一回の射撃での命中率が高まる。
 しかし、もし散布界が異常に大きければ、散布界と目標艦が交叉しても、命中弾が一発も出ないということもあり得る。
 平賀の造った「古鷹」型では試射が終わり、散布界が目標艦と交叉し速射を始めようとすると、給弾システムの不備から次弾の装填が間に合わないという欠点があった。
 しかし、この問題は艦本の砲熕班の努力で、五〇口径二〇センチ連装砲塔という、優秀な兵器ができて解決した。
 ところが、陸上射撃とか三砲塔搭載の「青葉」型では、優秀な散布界により、一六パーセント前後の高い命中率を得たのに、五砲塔搭載の「妙高」型では散布界が異常に大きく、どうしても四〜五パーセントの命中率しか得られなかった。
7無念Nameとしあき24/10/23(水)00:16:50No.1265805971+
 ちょっと計算するとわかるが、六門艦「青葉」が一〇回で六〇発、射つと、九・六発の命中弾がでる。
 「妙高」型では一〇回で一〇〇発を射っても、五発しか命中弾がでない。
 これでは「妙高」型の実戦能力は「青葉」型の半分以下でしかない。
 全海軍は、また起こった新鋭艦の欠点に、全く頭をかかえてしまったのである。


公算射撃における砲弾の散布界
 藤本の後継者、江崎が「妙高」の改設計により「愛宕」型をまとめるように命令された時、平賀には「船造りは上手だが軍艦造りの能力のない造船官」という評価が定着していた。
 このような平賀が、一五年後に名リーダーとのふれこみで艦政本部にもどるのは、彼が山本開蔵を口説き落としたからだ。
8無念Nameとしあき24/10/23(水)00:17:12No.1265806040+
 山本には、平賀の艦本での地位を守りきれずに左遷したことで、なんとなく「可愛そうなことをした」という引け目があったので、つい一五年前のことを忘れ、平賀の復活に力を貸してしまったのではなかろうか。
 自責の念の強い山本は後年、日本海軍敗北の責任の多くの部分が艦政にあり、その原因は平賀を艦本のリーダーにした自分にある、と考えてしまい、高僧のような自戒の生活を守った。
 造船協会が、彼に名誉会員の称号を贈ろうとしたときも、もしこの贈称を強行するなら、自分は造船協会を脱退する、自分はそのような名誉に価する人間ではない、としてこれを固辞した。
 山本開蔵は、全く立派な人格者であった。
 さて「妙高」型の散布界縮小対策にもどろう。
 当時、その原因は艦橋の異常な振動と、前後砲塔群間の距離が長く、高速航行による船体のねじ
9無念Nameとしあき24/10/23(水)00:17:29No.1265806114+
 しかし、砲塔間の距離をちぢめたので、艦橋が缶室の上にくる。
 煙路と艦橋は、切り離しておかないと、船体の振動が複雑に伝わってしまうので、その形を大きく頑丈なものにしたのである。
 あの有名な「愛宕」型の堂々たる艦橋は、下半分を煙路が占めており、中身は何もないのだ。
 こうして「妙高」型では振幅が八ミリもあった射撃指揮所の振動を「愛宕」では、四ミリにとどめることができた。
 そして射撃用大型眼鏡の下に防震用のゴムを張ることで、これはゼロになった。
 昭和六年の新計画で建造する「最上」型では、砲塔と機関の関係を整理し、前部砲塔三基の配置を変更し、第三砲塔の位置まで最上甲板を延長し、艦橋構造物の小型化に成功した。
10無念Nameとしあき24/10/23(水)00:17:52No.1265806195+
 だが、船体のねじれを防ぐため、砲支筒と船体を固着してみたが、これは砲支筒がゆがんでしまい、大砲が旋回できなくて失敗であった。
 そのため「最上」の竣工後に固着部分を切り離して、正常な使用に耐えるように改良した。
 それらの対策によっても、なお一万トン型巡洋艦の命中率は正常な数値には達しなかった。
20センチ砲6門を搭載した一等巡洋艦「青葉」型
20センチ連装砲塔5基10門を搭載し前後砲塔群の間隔を短縮、
艦橋構造物を堅固にして射撃精度向上をはかった一等巡洋艦「愛宕」型
3 主砲換装のネック top

 五〇口径二〇センチ砲の砲身の長さは、約一〇メートルある。
 それで砲口から一〇メートル手前に計器をおいて実弾を発射して測定すると、重さ一二六キロの弾丸に八三五メートル/秒のスピードを与えたあとの腔内最高圧力三二トン/平方センチのガスが砲口から噴き出してきて、計器は一・五トンの圧力を記録する。
 これが四五口径三六センチ砲では三トンになり、「長門」の四五口径四〇センチ砲では四トンになる。
 そして四六センチ砲、五〇センチ砲となると、六〜七トンになったものと計算される。
11無念Nameとしあき24/10/23(水)00:18:11No.1265806287+
 戦艦「大和」では、この対策として甲板上の機銃、高角砲、測距儀、探照灯など、すべての艤装品を、厚くて丈夫な装甲鈑でカバーしてしまった。
 それは航空機の機銃掃射などに対しては、耐弾防禦になるから決して無駄ということはないが、重量的には死荷量である。
 たとえば「長門」の高角砲は、一〇馬力のモーターで旋回させることができた。
 ところが、同じ大砲に重装甲の爆風除楯を装備したため「大和」では、二五馬力のモーターでないと動かせなかった。
 主砲が大型化すると、それに関連して爆風対策に重量が増加する。
 藤本の考えていた全主砲艦首集中案は、この爆風対策にも有効であった。
 少なくとも艦の後半部は、やや軽い対策ですむ。
 さらに、彼の考えどおり将来、主砲を大型化したときも、艦首には大砲の直後にガッシリとした艦橋構造物があるため、対策が施しやすい。
12無念Nameとしあき24/10/23(水)00:18:28No.1265806331+
 しかし、主砲を前後に分散配置すれば、他のすべての条件が満たされたとしても、この爆風対策に行きづまって、大型砲への換装が不可能になる可能性が強い。
 主砲換装のためのネックは、もう一つある。それは弾丸の格納方法だ。
 「長門」型までの戦艦と巡洋戦艦、巡洋艦以下の艦艇では、弾庫の中の弾丸は、高さ二メートルくらいの枠で囲まれた仕切りの中に木製の枕を用いて四、五段に横積みされている。
 そして、天井の走行クレーンにより、横吊りのまま揚弾筒まで運ばれる。
 戦艦「加賀」型では、艦内にペルト・コンベアーが設置され、横方向の移動が、やや機械化された。
 日本海軍では、水中弾効果の発見以後、遠達効果のある細長い九一式徹甲弾を使用することにした。
 そのため、在来の格納場所や天井クレーンの位置を、全面的に変更しなければならなかったが、これは大仕事だった。
13無念Nameとしあき24/10/23(水)00:18:46No.1265806395+
 ここでも、藤本の発想は転換された。
 彼は艦内の給弾システム全体を給弾ベルト方式に改めて、弾丸をすべて縱積みにしたのである。
 この方式ならば、一八インチ砲弾と二〇インチ砲弾では直径が二インチ、つまり、約五センチ違うだけだから、給弾システムの全機構を、四六センチ砲と五〇センチ砲で共通化しておくこともできる。
 この時期、日本では大型砲を搭載する大型軍艦の建造予定がなかったが、幸いにも、タイ国海軍から、二〇センチ砲搭載の砲艦二隻の建造を受注していた。
 そこで、川崎造船所で建造する、この「トンブリ」型砲艦には、新設計の五〇口径二〇センチ連装砲塔F型を搭載することにした。
 そして、砲塔一基あたり六八発の弾丸が、砲室内と給弾筒、そして砲支筒の周囲に縱位置に配置され、給弾の迅速化が計られた。
 なお、この方式は「大和」の建造にあたって採用され、良好な結果が得られた。
14無念Nameとしあき24/10/23(水)00:19:05No.1265806459+
 ここで“ミニ戦艦”の思想により設計された、実験巡洋艦「利根」「筑摩」について調べてみよう。
 この型の巡洋艦では、まず、前後に分散していた主砲群を、一ヵ所に集中してしまった。
 船体ねじれの主砲散布界への影響の原因を、根本的になくしてしまったのだ。
 完成後の射撃成績を見ると、散布界の縮小は果せなかったものの、一六パーセントの命中率は達成している。
 これは、在来艦の散布界で、着弾点のバラつきが全体に平均している粗の状況だったのに対して「利根」では、大半の弾丸が集中して落下し、小数の弾丸のみがバラついていたからだろう。
 一般には散布界だけが問題にされ、命中率は比較されないので「利根」型のように、砲塔集中方式によっても散布界対策にはならない、とされているが、それは認識不足である。
15無念Nameとしあき24/10/23(水)00:19:21No.1265806529+
 戦艦「大和」の時も、この結論のすり替えによって、全主砲艦首集中案は討議の対象から外されていったのである。
 なお、その後の調査により、同時に発射された弾丸が、空中飛翔中につくりだす空気の乱流が、隣弾に干渉することが、散布界拡大の大きな原因であることがわかり、片方の砲を自動的に一〇〇〇分の三秒おそく発射する装置が完成した。
 「利根」型での第二の実験は、最重要部分である弾火薬庫の表面積が縮小されたことだ。
 これは平賀案のように、弾火薬庫と機関室を、すべてまとめてしまう方法では、効果はわからない。
 しかし、藤本案のように、まず弾火薬庫を優先し、次に機関室をやや軽く防禦するというテクニックには、大きな効果がある。
 たとえば、在来の戦艦の装甲飯の厚さは、超「紀伊」型で、一三インチだった。
 これに対して、昭和九年三月に藤本の説明した「大和」私案では、排水量五万トンで、六万五〇〇〇トンの「大和」と同じ一六インチを予定していた。
16無念Nameとしあき24/10/23(水)00:19:39No.1265806595+
 排水量の差を考えると、これは重防禦を弾火薬庫部分に限定しないかぎり、不可能なことだ。
 一般に、一つの籠に多くの卵をつめることは、危険が大きい、とされており、艦の生命である主砲は二回後に分散することが常識であった。
 しかし、それは一発の被弾が轟沈に結びつくことのない時代の話であった。
 被弾により砲機能のみが破壊されるだけであるならば、籠の数を増加して分散させるべきである。
 だが、弾丸の威力が増加し、一発の被弾によって、艦の生命が失われる時代にあっては、籠の数を少なくする方がよい。
 「利根」型での第三の実験は、主砲をすべて前部に集めることによって生じた、艦尾の広いスペースを航空兵装にあてたことだ。
17無念Nameとしあき24/10/23(水)00:19:55No.1265806646+
 この頃、重巡洋艦には三機の水上偵察機を、組み立てたまま搭載することが定められていた。
 それに対して「利根」は、五機を搭載した。
 そして「大和」藤本私案では、カタパルト三基、飛行機一二機という、航空戦艦のスタイルが考えられていた。
 航続力の面でも一八ノット八〇〇〇浬という、夢のような性能を達成した「利根」型は、全海軍から巡洋艦の理想として賞讃された。
 なお、艦隊速力一八ノットは日本〜ハワイ間の航程を、一〇日から七日に短縮できるスピードである。
 「利根」型の三番艦と四番艦は、予算の関係で戦時急造計画に含まれていたが、せっかく成功した「利根」型ではなく、一つ前の「鈴谷」型で着工された。
 これは藤本亡きあと、自主性を失った艦政本部が、復活してきた大艦巨砲主義者の圧力に屈したためであろうか。
18無念Nameとしあき24/10/23(水)00:20:14No.1265806736+
 だが、戦争が始まると、巡洋艦の準航空母艦化の方向は、正しかったことが戦訓により証明された。
 大破した「最上」は後部主砲を全廃して「利根」同様の航空巡洋艦に改造され、戦艦「伊勢」「日向」「扶桑」「山城」すら、航空戦艦化されていったのだ。
 さらに、建造中の「伊吹」のほかに、昭和二十年度には四隻の重巡洋艦を、航空母艦化する予算が計上されている。
 これは、左遷を解かれ中央に戻された中沢・江崎ら、かつての進歩派のデザインであるが、時はすでに、余りにも遅すぎた。
 もし、藤本健在なりせば、昭和十二年から十三年にかけての「高雄」型の近代化では、このような航空巡洋艦の出現が見られていたかも知れない。
19無念Nameとしあき24/10/23(水)00:20:33No.1265806808+
 昭和七年のある日、江崎には兼補軍令部という辞令が渡された。
 これは、めずらしいことであった。
 この頃の日本は、前にも記したとおり完全な縦割りの社会であり、それぞれの部内の秘密を守ることは、大切な規律の一つであったから、今のようなプロジェクト・チームなどつくることはなかった。
 ただ、日本海軍そのものには、かなりフランクな面があり、特別の委員会などでは、互いの立場を離れて、真剣に問題の解決について談合することもなくはなかったが、技術部門をふくむ兼補辞令によるプロジェクト・チームは、めずらしかった。
 当時、軍令部で軍備計画の担当は、二部三課の戸塚道太郎であり、江崎岩吉造船少佐がスクラムを組んだ相手は、その部下の石川信吾少佐であった。
 なお、このプロジェクト・チーム結成については、軍令部の古賀峯一第二部長が、あずかって力があった、と伝えられている。
20無念Nameとしあき24/10/23(水)00:21:04No.1265806921+
 当時、軍令部で軍備計画の担当は、二部三課の戸塚道太郎であり、江崎岩吉造船少佐がスクラムを組んだ相手は、その部下の石川信吾少佐であった。
 なお、このプロジェクト・チーム結成については、軍令部の古賀峯一第二部長が、あずかって力があった、と伝えられている。
 まず江崎は、第二次補充計画の準備としてのディーゼル機関の開発や“覆面”軍艦第一号の建造について、軍令部との話し合いを終え、続いて第二次補充計画を航空艦隊建設の方針で決定させた。
 また、満州事変と支那事変についての処理費を、会計法上の違法を承知で、主力艦の航空および対空兵装増強用に使用する件での了解もとった。
 さらに、海軍軍縮条約に抵触することを無視し、主力繿の主機関を改善し艦尾を延長して、その高速化を果たした。
 これらのことは、必ずしも艦本側の主張ではなく、昭和三年の軍備制限研究委員会の結論の線にそい、その思想をいかに現実化するか、という話し合いによったものであった。
 だが、新戦艦の設計についてだけは、違った。
21無念Nameとしあき24/10/23(水)00:21:29No.1265806997+
こうして「大和」設計にあたって軍令部側は、艦政本部側の権限であるべき艦型についてまで「艦首に全主砲を集中」するスタイルを強く希望したし、平賀はこの希望を砕くために、わざと説得用のデザインをつくらねばならなかったが、このことは後に述べる。
 なぜ、藤本が艦政本部内部で基本設計をまとめる立場にありながら、砲熕・水雷・電気・造機の各部に対して、発注者とも言うべき軍令部の意向、つまり“虎の威”を借りてまで、艦首集中型を主張しなければならなかったのだろうか?
 これまでの説明の結論を、繰返しておこう。
 藤本の考えは、竣工後のある時期、新戦艦の全主砲を一段大型の二〇インチ砲に換装する予定であった。
 この改装は、建造前からの準備なくしてはできないことであるが、同時に爆風対策、弾火薬庫重点防禦、航空戦艦化などの多くの新しいアイディアを実現するのにも必要であった。
 しかし、軍令部と艦本四部の若手部員同士が、話し合いによって基本方針を決めて事を運んだことに対し、上級者である自分たちの立場や権限が宙に浮くことを心よく思わない人たちも、関係部門には相当いた。
22無念Nameとしあき24/10/23(水)00:21:47No.1265807071+
 従って、海軍の上級者の中には、大砲と水雷こそ、今後も海軍の主軸となるべきであって、半日と空中に浮かんでいることのできない飛行機が、海戦の主役になる日が来ることなど信じられない人たちが多かった。
 今の若い者には、新しがり屋が多い。
 なんであんなに、海の物とも山の物ともわからない飛行機などに、力を入れるのだ。
 その上、実戦の経験豊かな我々の意見を軽んじ、小利口にふるまって自分たちの思うように事を選んでいってしまう。
 まことに困ったものだ。
 こうした“声なき声”が、密かにではあるが、確実に海軍首脳部の一部に広がっていった。
23無念Nameとしあき24/10/23(水)00:22:05No.1265807138+
 牧野茂元海軍技術大佐は
 《江崎さんが「大和」の設計補助者だった時代には、余り秘密保持はうるさくなかった。
 艦政本部の中での部員会議の時などは、新戦艦設計の方向性などについて話していた。》
と当時を回顧された。
 藤本の「大和」には、主砲換装という大きな手品の種が隠されていた。
 従って、それ以外については、極端な秘密保持は必要でない。
 だが、平賀の「大和」には、巨大であることと巨砲を搭載すること以外には在来艦と大差はない。
 そのことが逆に、あのような極端なまでの秘密保持対策として表われてきたのではないだろうか。
24無念Nameとしあき24/10/23(水)00:22:23No.1265807206+
 昭和九年七月五日、江崎とチーム・ワークを組むべき艦本内部の砲煩・造機の責任者に示された江崎案が、関係者のノートに残っているので、右に表示する。
 表示した数字は、当時の建艦関係者の“本音”だったと思われるのだが、同年八月に関係者全員に説明された「艦政本部代繿案」では、少し数値がかわっており、二万八〇〇〇トン型、三万五〇〇トン型、五万五〇〇〇トン型および近代化改装後の「陸奥」についての比較が説明されている(下表)。
 三連装三砲塔、ディーゼル主機、航続力などの面では前記の“本音”江崎案とほとんどかわらない方向性が示されているが、ただ一点、速力についてだけは、大きく数値がかわっている。
 改造後の「陸奥」は二四・四ノットの予定として示されている。
25無念Nameとしあき24/10/23(水)00:30:41No.1265808896そうだねx2
ここなんで荒らされてるの?
26無念Nameとしあき24/10/23(水)00:35:14No.1265809825+
もともと○○スレとかタイトルだけで何の意思も感じられないスレばかり立てるbotみたいな荒らしが居るんだけど
更に別の奴がコピペしてるだけだろ