富士山よりも高い空の上を、新幹線よりも速く飛ぶ――それは常人の目には映らない。 大きな複眼にて地上をねめ回し、雲の隙間に獲物を見るや否や急下降して捕まえて、 酸欠と極低温に凍死寸前の哀れな犠牲者は、頭からばりばりと噛み砕かれる―― 人間の天敵とも言えるその生命体は、僅かに残像を写した種々の記録から、 おおよそ人型大にまで異常発達した、何らかの虫を模した形態であると思われた。 しかしまさか、富士山の山頂から殺虫剤を撒くわけにもいくまい。 飛行機に近しい速度で飛来する人型大のそれを、戦闘機で対処するのも困難だ。 まして、推測される形態――蝿と同等の空中制御能力を持つのだとしたら、 件の生命体は、人間の反射神経の限界をはるかに超えた極小の時間で回避行動を取れる。 金属ではないために探知機にも映らず、目視だけでそれを撃ち落とすのは不可能に近い。 ――だからといって諦めていては、“神隠し”の犠牲になるものが増えるだけだ。 彼女が自ら作戦に志願したのは、単に愛国心があるからというだけではない。 登山中、友人の一人がまさにその“蟲”によってはるか高くに連れ去られた姿を、 自分に助けを求める声のあっという間に聞こえなくなる様を――忘れられないからだ。 人間大の高機動生命体に対処するには、同じく人間大で機動性に優れた相手を当てる。 立案した科学者は、やはり彼女とともに連れ去られる友の姿を忘れられぬ一人であった。 改造を受けるのは、人間としての生に別れを告げることに等しかったが――悔いはなかった。 山の斜面をなぞるように、飛ぶ。雲の層をいくつも突き抜けて、一際分厚い灰色の壁、 ひやりとする感覚をはるか後方に置き去りにしながら、じっと、日本一の山の頂を見る。 自分の脚で登った時には、巨大に見えた岩々が、もはや砂粒と同じぐらいにしか見えない。 一呼吸おく――きんきんに冷えて乾いた風が、気道を通って肺を凍らせようとする。 しかし既に彼女の心肺機能は、それだけの高高度にも優に耐えられる特別性になっていた。 腰の横に備え付けられた金属製の偏平な翼は、うっすらと霰の粒に煌めいている。 すらりと長かった脚には、同じく無骨な鈍色の筒が被せられていて、 参考となったかつての艦上攻撃機の意匠をあちこちに散りばめている。 彼女が友を失った地、天山――それが兵器としての名であった。 髪についた霜を払いながら、地上との連絡機を探す。一息にここまで飛んできたのに、 少しも乱れぬ心拍の強さに、彼女は己の肉体ながらどこか恐ろしいような気になった。 ついでにぱんぱんと水滴を叩き落とすと、分厚い防寒服に収められてもなお目立つ、 豊かな胸がそれにつられてぷるぷると揺れる――誰の目も届かぬ高さだ、 多少の不埒も許されようが――眼下の大社に敬意を評してか、女は服装を正した。 最も目撃情報が多いのは、低い山よりも高い山、しかも成層圏よりはずっと低い場所。 となれば、そこに獲物と同じ姿のものがいれば――襲ってくる公算は大きかろう。 それを当て込んでの計画だったが、実際にそこに人一人を打ち上げてみると、 その恐ろしいまでの冷たく静かな世界は、一切の生物の存在を許さないように思えた。 びりびりと頬が張る。うねる風の中、通信手の声を聞き取るのもやっとだ。 気を付けて――と辛うじて聞こえたのを最後に、女は視界の端を通った影に視線を向けた。 いない。水平にあたりをぐるりと見渡しても、何かの飛来するような様子はない。 手元の銃に弾を込める――“蟲”が至近に現れた際に、脳天をぶち抜くためのものだ。 鋼板数枚をまとめて貫通する弾丸を喰らって無事なものなど存在しない―― 次に現れたら、確実に仕留める――そう思った矢先、女はがくん、と視界が傾くのを感じた。 いる。背後に。いかに視力が超人的に伸びたとはいえ、空間把握力は人間基準。 素早く垂直に下降して視線を切った相手の方が、数段上手であったのだろう。 ぎちぎちと、“蟲”の腕が彼女の全身に食い込む――だが、これも想定内。 拘束こそされてはいても、身を守るための金属板は生物に破壊できる硬度ではない。 いくらかの格闘の末に、その醜い顔の中心に銃口を突きつけて――ずどん。 大きな穴の空いた頭部を晒しながら、“蟲”は雲の床を突き抜けて落ちていった―― これで一安心、と女が通信機を取り出すと――腰側に、強い衝撃が走った。 通信機もまた、ものすごい速度で雲に飲まれる。振り返ると、また別の個体がいた。 だが一匹二匹ではない――軽く数えただけでも十数体はいるだろう。弾は足りるか? さっきの奴と同じように、大きな穴を開けてやる――そちらに向き直ろうとしたが、 なぜだか、身体が宙に固定されたかのように不自由な感じがする。 振り返るまでもなく――取り付いた二匹目の羽音が、天山の戦意をへし折ってしまった。 ばきん、と毟り取られる翼――地上にはさぞや迷惑な落とし物であろう。 だがそれを気にしている暇はない。自ら飛ぶ力を奪われた彼女にとって、 取り付いてきている個体を撃ち殺してそいつと共に墜落死するか――あるいは、 他の個体を撃ち殺しながら最後の最後まで生かしておくかの判断は、難しい問いだ。 蝿たちは、嗤っているようだった。彼女の生殺与奪を支配することへの慢心があった。 結果的に言えば、彼女の抵抗はそれから二、三匹を雲に飲ませた程度で終わった。 弾を込め直そうとしたところで急に激しく上下左右に揺さぶられて弾帯ごと落とし、 完全に脅威ではなくなった、弱々しい獲物として蝿たちの前に吊り下げられるだけだった。 自分を信じて送り出してくれた一切の顔、あのとき拐われた友人の顔―― そんなものがちらちらと脳裏をよぎる。縁起でもない、と女は鼻で笑う。 だが蝿たちは、単なる食料として彼女を消費するよりよほどいい使い道を見つけたらしい。 おろし金のような歯を擦り合わせながら、別の個体が彼女の服を噛みちぎる―― 富士の上空に、二つの山が晒された。外気に触れた肌は、気温低下にぶるぶると震える。 そしてその突端に、蝿は口を吸い付けた――先ほど服の繊維を切られたばかり、 乳首程度なら容易くねじ切られてしまうだろう。女は恐怖に顔を引きつらせる。 けれど想像に反して、今度はねちゃねちゃと舐るように――赤子がそうでもするかのように、 目の前の蝿は女の乳房を舐め回すばかりで、それ以上のことはしない。 次に歯が当てられたのは下半身だ。下着ごとやはりあっさりと引きちぎられてしまい、 蝿は露わとなった彼女の性器を、薄く生えた陰毛ごと口に含んで舐めしゃぶる。 ここまでくれば――自分が今から何をされるかを考えることは難しくない。 彼女は今や、高高度に耐えられる頑丈な苗床として、蝿に見初められてしまったのだ。 想像を裏付けるように、彼女を拘束していた蝿の股間からは交尾器が伸びている。 咄嗟に頭をぶち抜いてやろうとしたが――墜落死の恐怖が、女の動きを鈍らせた。 その隙を付いて、蝿は処女をあっさりと奪い――かくかくと腰をくねらせる。 呆然とする彼女の掌中からは拳銃がするりと逃げる――もっとも、既に弾倉は空であった。 蝿はすっかり気力を失ってしまった獲物を甚振るように性器を動かしながら、 その温かな子宮に、おぞましい精を吐きつけてやるのだった―― 繁殖の相手とされた彼女は、常に高空に吊り下げられながら蝿に凌辱され続けていた。 四肢はがっちりと抱え込まれて抵抗の余地がなく、また飛んで逃げることもできない。 せめて餓死か衰弱死でもできれば――とも思うのだが、地上で腹を満たしてきた別の蝿が、 口の中に貯めた汚泥のような咀嚼物を飲ませて無理矢理に彼女の命を繋いでくるので、 唯一の希望さえ絶たれてしまう有り様であった。だがそれより更に心を抉るのは、 こちらの都合など一切考えない、本能的で冷たい虫けらの腰使いに自然と順応し、 胎の奥に広がる熱を、どこか心地よいと感じてしまっている己自身のことだ。 こうして交尾され続けていては――と、最悪の想像をしないでもない。 けれど、その先を具体的に考えるだけの気力を、蝿たちは彼女に許さない。 死んだら死んだで、雲の中に投げ込んでしまえばそれで終わりなのだから―― 天山との連絡途絶から軽く一年は経つ。作戦本部は科学者の強い立候補に押されて、 彼女を第二の人型兵器へと改造することを決めた。友人のことを思うその姿に、 もういいとは言えなかったからでもあるが――“神隠し”の頻度がより高くなっていることと、 より低い高度で起きるようになったこと、は、人々の悩みをより深くしていた。 雲を抜けて大社を下に臨む二機目は――確かに友の姿をそこに見た。 だがその姿は、かつての凛々しい様とはとても同一人物とは思えない。 同性でも羨むほどの胸は――ぶくぶくと、雌牛のように膨らんでいて、 そして細かった腰が、乳房よりもさらに数回り、大きくなってしまっている。 何が入っているのか?その問は無意味だ。蝿に飛行能力を掌握されたまま、 友と再会しても気付かずに交尾の悦楽に浸っている彼女の子宮には、 乳首に吸い付いているのと同じような蛆が、ぱんぱんに詰まっているに違いなかった。 そして、母乳を“我が子”に吸われるか――“夫”の射精を受けたときに、 なんとも蕩けた笑顔で快楽を噛みしめる顔は、もはや人間のそれではない。 蝿のつがい――そう呼んでしまう方が的確なほどに、心根が破壊されてしまっている。 友の無残な姿に、二号機は通信機の電源を切った――こんなことを伝えたくない。 せめて楽にしてやろう、と拳銃を構え、どちらを撃つか悩むその後ろに―― また別の蝿が、新たな苗床を捕まえようと飛来したことには気づきもしないで。